生まれた時からロスタイム

少数派の人生や、ちょっと人と違うかもしれない考え方などを紹介していきます。

長めの自己紹介、後編

はい、すっかり長くなってしまった自己紹介の後編です。

 

大学時代

しぶしぶ進学した学校ですが、親元を離れられたことはほっとしていました。美術部もあったので、入部して高校時代と同じように油彩を描いていました。

しかし、第5希望の滑り止め候補だったこともあり、ろくに大学の様子を調べておらず、入学してからビックリすることがたくさんありました。心理学科とほか1~2学科以外は馬鹿ばっかり(失礼)のトンデモ3流大学、いや4流かも。偏差値40未満で合格できる学部がいくつもありました…。

付属高校から進学してきた学生が「光合成って何ですか?」と言ったり、他の学生にレポートを書いてもらって買い取っている(5万くらいだった)金持ちのバカ息子を目撃したり…。

ああ、とんでもないところへ来てしまった…。確かに心理学は勉強できるんだけど、絶望的に学生の質が悪い。受験し直したいけどお金がない。せめて他大学に編入したい。え?2年次終了で編入できるところってたったこれだけ?卒業後に編入?その後大学院?ウソでしょ?ああ、もう嫌だ…。2年の途中まで、そんな葛藤を抱えながら暮らしていました。

2年の後半頃になると、関わる人もふるいにかかけられるといいますか、余計なノイズを排除できるようになりました。その頃ようやく「心理学も勉強できるのだし、大学院で他所に行けばいいや」と思えるようになりました。

まるっきり馴染みのない土地に来たので、訛りも分からないし地名も分からないし、人々の考え方も違うし、食べ物も違うし、馴染める部分と馴染めない部分がありました。それでも「住所表示が○○市××区になっていて地下鉄が走る都会」の暮らしは、私にとっては快適で楽しいものでした。

生まれ故郷が一番、という人もいるかと思いますが、私のように故郷が合わなくて他所の方が合う人もいます。都会が合わない人もいますが、私のように田舎が合わない人もいます。どっちが正しいとか良い/悪いでなく、その人にとって暮らしやすい土地を見つけることができるのが、一番大事なことと思います。

大学2年の頃は、授業(教職課程を含む)+部活+ファミレスの調理バイトの三つ巴をこなしていました。3年になってバイトは辞めましたが、授業は引き続き通常コマに教職課程を追加した状態でした。結構忙しい中でも、美術部の活動がメインになっていました。

3年と4年の間の春休みに倉庫の軽作業バイトを始めました。ピッキングと呼ばれる、指示書に従って棚から指定された商品を取ってくる仕事です。

ある日、バイト先で「個人別に出荷ミスの数を貼り出される」という出来事がありました。個人名は伏せられていましたが、スタッフ番号毎に棒グラフになっていて、タイムシートと照合すれば誰が何個間違えたのかわかる状態でした。

棒グラフの中にダントツで出荷ミスが多い人がいて、よく見たらそれは私でした。

…こんなの張り出す必要ある?個人的に「ミスが多いから気を付けてね」と注意すればいいだけのことではないの?

どうにもこの日以来バイトに行くのが嫌になり、4年生になって授業が始まっても外出するのが億劫になっていました。授業や日常の買物もしんどくなり始めていました。

他にも人間関係のイライラが重なり、卒業後の進路の不安もあって不眠症状が悪化していました。もともと子供の頃から寝つきが悪い傾向があったり、夏場は暑さから睡眠サイクルが狂ったりしていましたが、春先に不眠が続くことは稀でした。

そんな調子の悪そうな私の様子を見かねた友人が、相談相手として旦那を連れてきました。旦那は私よりも9つ年上で、最初からオジサンでした(笑)「友人の元彼のバイト先の社員」で、以前にも会ったことはありました。この「友人の元彼」がまたとんでもないクソ野郎でねぇ(爆)それをボコボコにしていた人です。

旦那に何か具体的に相談をしたわけではなく、世間話程度しか話さなかたのですが、最初から会話の至る所で“ハモって”いました。同じタイミングで同じセリフを同じトーンで言っちゃうんですよ(笑)

6月に地元の中学校へ教育実習に行き「教職員の先生方は頑張っているっちゃ頑張ってるけどなんか窮屈な世界」を見てきまして…。更に心が荒んだ状態で大学へ戻ってきました。実習から戻ってすぐ、旦那と付き合い始めました。

教育実習に行った人は教員採用試験必ず受けないといけなくて、7月に受験のために実家に戻りました。私の記憶だと、その頃から「実家に帰ってこい」という電話が頻繁にかかってくるようになりました。

絶対に実家に帰りたくない。帰ったら狭い世界に閉じ込められる。投獄されるのと同じだ。不眠症だけでなく、情緒不安定になっていきました。

旦那に支えられる形でどうにか卒論も提出し、大学を卒業することができました。大学院入試はまるっきり勉強に集中できず、心はボロボロの状態でした。

 

科目履修生&フリーター

大学院受験に失敗したので、浪人し国立大学の科目履修生と大学院予備校に通学していました。小さい子供が苦手でしたが、小学生くらいになれば抵抗もないので、自分の勉強にもなるだろうと学童保育所でバイトをしていました。

学童のバイト中、パニック障害を発症しました。9月の暑い日に鬼ごっこをしていて、急に目の前が真っ暗になって膝がガクガクし、手が震え出しました。

それ以前から外出恐怖症状と不眠症はずっと続いていて、バイトも休みがちでした。10月くらいまで様子を見たのですが、限界を感じたので学童保育所は辞めました。

大学院予備校の講師をしていた先生が大きな精神科の病院でカウンセラーをしていたので、その先生の所へ通院するようになりました。大学の授業と通院以外はほぼ引きこもり生活で、玄関から出てマンションの階段を下りることすら困難でした。

半年ほど引きこもり生活をし、翌年春になってようやく一人で近所のコンビニまで出かけられるようになりました。内職で作業できる学習塾の自習用教材の校正バイトを見つけ、少しずつ復活し始めていました。

そんな矢先、父がガンで入院しました。病院で検査した時点でもう末期とのことでした。やっと私の病状が良くなってきたのに。もう一回状況を立て直して大学院受験するのに。なんでこんな時まで父は私の邪魔をするんだろう?そうとしか考えられませんでした。

それから地元と居住地を往復する暮らしになりました。意地でも大学院へ進学するつもりの私は、ブラック学習塾の事務バイトに就きました。後にその学習塾は詐欺で訴えられて新聞沙汰になっていました。私の心が更にボロボロになったのは言うまでもありません。

秋に父が他界し「実家へ戻ってこいコール」からは解放されましたが、自分も限界に達してしまいました。ブラックバイトを辞め、またアルバイトを転々とする生活になりました。

運悪く、同じ年の冬に旦那の母親もガンで亡くなり、もう訳がわからない状態になってしまいました。

 

学習塾のバイトから独立、開業

アルバイトを転々としていた2002年春、個別指導型学習塾の事務バイトに応募したところ「講師をやらないか」と持ちかけられました。この時面接を担当した女性はエリア責任者で事業部長だったのですが、なんかすごく面白そうな匂いがプンプンしていました。

まだ大学院受験は諦めていなかったので人に勉強を教えている場合じゃなかったのですが、先生をやり始めたら相当面白かったです(笑)何と言うか、面白いように生徒が勉強がデキるようになるんですよ。

そんな訳で塾の仕事はとても楽しかったのですが、ちょっとプレッシャーがかかる(=他人から評価される状況になる)と外出恐怖症状が出ていました。個別指導型なので生徒の人数や科目に合わせて先生を配置しているわけですが、私はバイトを休みがちになっていました。塾講師のバイトを始めて半年後くらいが一番酷い状態だったと思います。

応募面接の時点で「持病があって通院しているのでバリバリ働けない」とは伝えていたのですが、病名は言っていませんでした。とにかく外出恐怖症状が強く仕事を続けるのが難しい状態でしたが、私は辞めたくありませんでした。

やっと楽しと思える仕事に出会い、なんとか半年続けられて、指導した生徒の成績向上率が良かったことで表彰状も貰って、ここで辞めたらもう私は社会復帰できないと感じていました。

職場の上司に病気のことを説明し、同僚の理解と協力のおかげで、私はこの仕事に必死にしがみつくことができました。外出恐怖を乗り越える頃には大学院のことはもうどうでもよくなっていました。

2年半のアルバイト講師を続けた後、実家で学習塾を開業しました。いろんなステップアップだの社会経験だの、そんなものは無視です。雇われた枠の中でなく、全部自分でやりたくなりました。この時はいわゆる「根拠のない自信」がありました。絶対いけると思っていました。

あれほど嫌だった実家に戻った理由は他にもあります。旦那が私を介護しきれなくなったことや、子供の頃のいろんなものを清算する必要性など、いろいろと説得されました。勿論旦那も私の実家へ一緒に引っ越しです。

自宅で開業すると通勤が要らないので、外出恐怖症状に囚われずに仕事ができました。バイトの頃はとにかく上司や同僚に対して納得がいかなことを旦那に相談していましたが、そもそも足を引っ張られることもなくなった為、イライラがなくなり、快適になりました。ま、同僚にも上司にもいろいろいますから。

30歳の時、病状が落ち着いてきたので旦那と入籍しました。交際7年ですね。長かったです。その後メンタルの薬も止めて、ようやく精神科通院がなくなりました。

実家に暮らすようになってから咳喘息とアトピー性皮膚炎を発症し、精神科の通院よりもお金がかかるようになりました。冬は咳も酷いし入試もあるし、かなりしんどい状態になっていました。

そんな中、ストレスから旦那が体調を崩し、原因不明のまま入院することがありました。実家で暮らすようになっても母とは分かり合えることはなく、ただただストレスが溜まるだけでした。旦那は私と母の板挟みで、狭い田舎で私と母の顔を立てて無理をしていたようです。

母に対する諦めと不和、自分の体調不良、旦那のストレス症状から、地元を離れたいと思うようになりました。学習塾は至って順調で、リーマンショックの影響を受けつつも生徒が口コミで入ってくる状態でした。しかし私としては思うところがあり、塾を廃業して都会へ戻ることにしました。

 

都会に戻ってから

都会に戻ってからは旦那はしばらく体調が悪く、数年間働くことができませんでした。私と旦那との意思疎通がうまくいかなかった為、メンタル系の病院へ行くまでに時間がかかってしまいました。

旦那は神経症とうつの中間のような状態だったようです。生まれつき肝臓が悪いので薬が効きすぎる体質らしく、かなり弱めの安定剤を処方されたようでした。良いドクターに出会えたようで、通院から1ヶ月程度でバイトに行けるようになりました。

私の方はずっとパートや派遣社員として働いていました。学習塾は特殊な世界なので、それ以外の普通の会社で働いて、どれほど自分が通用するのか知りたいと思っていました。結論から言うと、結構イケる!

たとえ田舎の小さな学習塾でも、一人の経営者として働いていたことは「山籠もりの修行」みたいなもので、圧倒的に濃縮された経験を積むことができたと感じました。

 

学習塾の話や仕事論、病気の話などはテーマごとにもっと掘り下げて発信できたらいいなと思います。前編/後編にて自己紹介させて頂きましたが、興味を持って下さった方は是非読者登録頂けますと嬉しいです。

なんとか毎日1更新を目標に、ぼちぼちやっていきます。