生まれた時からロスタイム

少数派の人生や、ちょっと人と違うかもしれない考え方などを紹介していきます。

長めの自己紹介、前編

ブログお引越ししてからまだ自己紹介書いていないので、そろそろ書いてみようと思います。かなり長くなってしまったので、前編/後編にしようと思います。

 

1976年生まれ、誕生日は非公開、出身地も非公開

2015年時点で39歳です。「五体不満足」でおなじみの乙武洋匡さんと同い年です。もう「ババア」と言われても「そうだよ」と返せる年になりました(笑)むしろ自ら「おばさん」を名乗っています。

セキュリティー面を考慮し、誕生日は非公開です。twitterのアカウントに“0110”とつけていますが、あれは誕生日ではありません。それっぽいダミーの数字を敢えて付けています。

日本国内の、とある山奥の田舎に生まれました。住所表示が○○県××群△△町になるくらいの田舎です。私が小学生の頃には過疎地域に指定され、お年寄りだらけの限界集落です。

出身地は非公開の方針です。本当にすごく田舎なので、人が少ないんです。年齢やちょっとしたエピソードで個人が特定できてしまいます。いろいろと書きたい話があるので、地名は伏せたいと思います。

田舎特有の窮屈さは知らない人にはなかなか伝わらないものかも知れませんが、ちらほらと私と似たような窮屈さに苦しんでいた人も見かけます。こちらのブログでも田舎の実情をあらゆる角度から伝えていけたらいいなと思います。

 

幼少期

きょうだいはいません。一人っ子です。私が3歳くらいまでは父方の祖母が生きていて、同居していました。母方の祖母は比較的近所に住んでいましたが、たまに会う程度でした。

正直、両親は人として問題のある発言や行動が多く、辿れば祖父母に問題があることも多かったです。平和な家庭に育った人には理解不能な点もあると思いますが、世の中にはそういう人もいるんだな、と理解が深まればいいなと思います。

私のような「残念な家庭」に育ってしまった人は、物事の受け止め方や考え方、表現方法が歪んでしまっていることがあります。子供の頃からずっと、家族におかしな世界観を押し付けられて、洗脳されてしまったと思って頂ければ分かりやすいかも知れません。

うちの田舎は6歳の一年間のみ幼稚園があり、その前は希望者が保育園に通うスタイルでした。私も5歳の一年間だけ保育園に通っていました。

保育園に行ったら真っ先に本棚へ直行!当時既にひらがなもカタカナも読めたので、面白そうな本を片っ端から読んでいました。母の話では「ポンキッキを見せていたら3歳ごろには全部覚えちゃったから字は教えていない」らしいです。いやいや、そのくらい教えろよ、って思いませんか?

他の子供と遊ぶことには興味がなかったので、外で遊ぶ時間も周囲の子供達を見ているだけでした。そもそもチビッ子達は何が楽しくてあんなにワーワーキャーキャー騒いでいるのかが理解不能だったんですよねぇ…。

 

小学校

まず、とっても田舎なので1学年1クラスです。私の学年は35人前後いたのですが、他の学年はもっと少なく、全校で160人前後しかいませんでした。

自宅から片道30分、約2km、徒歩で通学です。アスファルト舗装はされていましたが、山道と言っていいアップダウンの多い道です。家から学校がもっと遠い子もいましたが、スクールバスはありませんでした。

小学校に入学してまずショックだったのは「学校の授業が簡単すぎてつまらない」ということ。まだひらがな練習するの?また足し算?もう飽きた。

多くの同級生が幼稚園の時点でひらがなが書けたので、入学した時には気が付かなかったのですが、どうやら私はIQが高い方だったらしいです。何もしなくてもできる感覚がついてしまったので、努力が身につきませんでした。

学年が上がっても、適当にやっても何とかなる状況は変わらず、相変わらず学習習慣は身に付きませんでした。田舎過ぎて、私より成績の良い子が皆無だったことも、悪い追い風になってしまったように思います。

幼稚園から中3まで習字を習っていて、たまに賞なども貰っていましたが、日頃書く字は結構ひどいです。頭に浮かんだことに字を書く手が追い付かないんです。「思いついたことが消えちゃう!」とイライラしていました。現在はキーボードで1分間に70文字前後打てるようになったので、本当に快適です(笑)

他に幼稚園から中1までピアノ、小3から中1までそろばんを習っていました。ピアノはやりたくてやっていましたが、ろくに練習をしなかったのでバイエル下巻の途中までしか進んでいません(爆)そろばんは母親が勝手に申し込んで、しぶしぶ通っていました。そそっかしいのか何なのか、そろばんの腕はイマイチでした。3級の試験を小6と中1で合わせて3~4回受けて全滅しています。

小5の頃から、地元の中学校には行きたくないと感じるようになりました。同級生とは話も考え方も合わないし、私の1学年上と2学年上にはもっと合わない人達がわんさかいるのを知っていました。

うっすらと残る記憶の中では、私は母に「中学受験をして他所の学校へ行きたい」と言っていますが、無視されました。心の荒れ方が加速したのもこの頃からではないかと思います。小6の頃、訪問販売か何かの見知らぬ人に「お父さんとお母さん、どっちが好き?」と聞かれ「どっちも嫌い」と答えていました。

 

中学校

最悪な3年間でしたね。小学校2校の生徒が一つの中学校に通うのですが、田舎過ぎて子供が少ない実情は変わらずでした。私の学年は70人前後の生徒いましたが、他の学年はもっと少なく、全校生徒は180人未満でした。

子供が少ないので、部活動も運動部しかなく、さらに選択肢が少なく、なおかつ全員強制加入でした。病気があって運動ができない子のみ、文化部に入れるシステムになっていました。

そんなシステムなのだから、やりたくてやっている子としぶしぶやっている子が出るのは当たり前だと思うんですけどねぇ…。私は運動が嫌いなのでしぶしぶです。それでもまだ野球が好きだったのでソフト部に入るという選択ができただけいいかな、と思います。

勉強は相変わらず、適当にやっても何とかなる状態です。実力テストをテスト範囲の教科書を見直すことすらせず受けた時でも、学年7~8番あたりにいるという珍事…。決して天才ではないので中途半端な出来栄えですが、何も苦労はないです。

塾も通わず、通信添削も受けず、参考書も買わず、問題集も買わず、宿題もせず(え?)授業中もノートに落書きなどしていましたが、先生の説明はおよそは聞いていて、黒板をノートに写すのはちゃんと書いてました。

教科書と資料集はわりと読んでいました。先生の話がつまらないから教科書読んで勝手に勉強しているんですけどね(笑)テスト勉強をするときも、教科書を読みなおすくらいでした。

 

高校&浪人

高校は公立の進学校に行きました。公立の普通科ですが、女子高です。全国的にも多少あるんですよ。旧制中学の名残です。

通学は電車と徒歩で片道1時間かかりました。当時は学区制度があり、県内の他学区にある学校に行くのは非常に狭き門になっていました。なので、県内では3番手か4番手くらいだけど学区内では一番難易度の高い学校にしました。

高校時代はとても楽しかったです。田舎の優等生の集まりなので、基本的にはみな“大人”で、アホな子も賢い子もいましたが、サッパリした子が多かったです。地方都市にあるので、地元の子よりはもっと都会っぽい子?が多い印象です。

親しい友人達は「ガリ勉とオタクを足して2で割った感じ」の子が多く、真面目と言うか地味な方で、10人中5人がAB型という、ちょっと不思議な集団でした。私もAB型ですが、みな自分の世界が大事で、他人のことはどっちでもいい(笑)

小さいころから絵が好きだったので、高校では美術部に入りました。油彩がやりたかったんです。県内に芸術系の高校がなかったので、私からすると「念願が叶った」ような感じでした。美術部の活動が活発だ、というのも高校選択の理由の一つです。

と言っても…すぐに自分には才能がないことに気が付きました。そこで美大進学はさっさと諦めまして、心理学を専攻しようと思いました。

勉強面は、やはり進学校なのでペースも早く、予習していて当たり前な世界でした。それまで適当に過ごしていた私は、余裕の成績で入学したはずなのに、あっという間に置いてきぼりです。学年の真ん中あたりまで下がった成績を、50番前後まで巻き返すことはできたのですが、大学入試で志望校に入れる成績には届きませんでした。

浪人時代も含め、勉強している割に成績が上がらない世界史、公式を覚えても計算結果が合わない数学、に苦しめられたように思います。生物は超得意だったので暗記が苦手なわけではないのですが、英語や古典などは単語を覚えたりするのが面倒臭いと感じていました。単語の意味が分からなくてもだいたい何とかなるのでねぇ…。

結局、浪人しても第一志望の国立大(偏差値60台前半)には合格できず、心理学が学べる大学は不合格が続き、第5希望の私立大学の文学部心理学科(偏差値50台後半)へ入学しました。国立後期日程で滑り止めで受験していた地元の大学の教員養成課程(中学理科)も合格したのですが、希望学科じゃないので行きませんでした。

 

少し詳し目の自己紹介をしようと思ったら思いのほか長くなってしまいました。大学受験で行きたかった大学に行けなかったことは、私の人生に大きく影響しています。変な話ですが、塾屋として生計を立てていた人が子供時代ろくに勉強していなかったんですよね(笑)

 

後編に続きます。